STMG 古伝武術の世界|「氣」とは何か、「勁」とは何か
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古伝武術の世界

対人稽古

よく古伝の武術には技の用例のようなものがあり、それが技そのものであるかのような話がありますが、そうではなくあくまで一例でしかありません。言い方を変えますと演習問題のような感じでしょうか。つまり用例をそのまま実際の闘いで使うわけではないという事です。しかしながら用例は単なる一例、演習問題で終わるわけではなく、充分に練り込むことで自身の個性から導かれる「自分だけの技」を引き出す雛形になってくれるのです。(補記ですが、対人の稽古は非常に重要です。それは用例だけではなく連環の対打、対練対對や自由散手、門派によっては独特の「招」といったようなものまであり実に様々ですが、どのような種類の武術であっても対人の稽古を積まないで実用に耐え得る術者になるのはほとんど不可能だと思います)

つまり、套路を練り込むことで作り上げた身体でもって雛形の経験を積んでいきますと、時が経つにつれて自然と独自の技が発揮されるようになります。これはその人の個性から出ているものですから誰も真似る事ができません。さらに動きの完成度が高ければ前述の勁、特に暗勁やその先の化勁をも備わっているでしょうから相手に気取られる事なく間合いに侵入できる事となります。そして当身を発した際にも外面的な動きからは想像も出来ない大きな威力を発揮するのです。この段階にまで至れば徐々に規定の形を離れて独自の動きを発揮できるようになっていきます。よく「無形」と言われるような段階に向けての足掛かりが得られるという事になります。

このように、勁とは単なる打撃の事のみを指すのではなく「転換された質の高い動き、またはその身体運用から発揮されるもの、或いはその修練の段階」と定義できるかと思います。勁を発揮することを「発勁」と称しています。この言葉の響きのイメージから強烈な当身を放つ事柄のように思われるのですが、そういった単純な話ではなく動きの精妙さ自体が勁であり、そこから発せられる技術が発勁だと言えます。勿論、強力な当身も発勁ですし、関節技のようなもので制圧するのも発勁といえるわけです。この辺りを誤解しますと修練が遠回りになってしまい、適切な成長に繋がりにくくなってしまいますので修行者は是非抑えておきたいポイントだと思います。

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